
多彩な植生に養樹園時代の名残りを感じる~「円山公園」~
北海道神宮をいただく宮ケ丘エリア。エリアの大半を占めているのが「円山公園」です。約69ヘクタールの広さを誇る敷地内には豊かな自然が広がっており、ゴールデンウィーク頃になると見事な花を咲かせる桜を目当てに多くの市民が訪れます。また園内にはさまざまな施設も設けられています。1934年(昭和9年)竣工の円山球場や、道内初の動物園として1951年(昭和26年)に開園した円山動物園など、どれも市民にとっては馴染みの深い施設ばかり。北海道神宮へと続く参道も整備されているなど、「円山公園」は古くから市民の憩いの場として愛されてきました。



北海道開拓の先人37柱の御霊を祀る~「開拓神社」~
円山公園内から北海道神宮へ至る参道沿いには、3つの境内社が建ち並んでいます。公園口鳥居の手前に鎮座するのが「開拓神社」です。こちらは北海道開拓70周年の節目であった1938年(昭和13年)に創建されました。

本殿では、北海道の発展に偉大な功績のあった先人37柱が祀られています。境内の立札には、祀られている御霊の名が記されています。松前藩の初代藩主・松前慶広を始め、私財をなげうって卓越した測量技術で蝦夷地の正確な地図を作成した伊能忠敬、間宮海峡を発見した間宮林蔵、札幌の都市計画の基礎を作った島義勇…など、日本史の授業にも登場するそうそうたる面々です。

また、境内の中には納札所もあり、「商売繁盛」や「厄除開運」など9種類の祈願札を配っており、初穂料300円でお焚き上げして頂けます。また近年は、仕事運や勝負運が上がるパワースポットとしても注目を集めています。

鉱山事故で殉職した方たちに思いを馳せて~「札幌鉱霊社」~
その隣に祀られているのが「札幌鉱霊社」です。戦前から高度成長期にかけて、国内産業の原動力となったのは石炭産業でした。しかしその陰で、鉱山事故で尊い命を落とした方々も数多くいました。そうした殉職者の御霊を敬うために札幌鉱山監督局前庭に1943年(昭和18年)に創建されましたが、1949年(昭和24年)に北海道神宮の末社として現在の場所に遷座。安全祈願をされる方がいまも数多く訪れます。

ブロンズ製の狛犬は金運UPのご利益あり!?~「穂多木神社」~
「札幌鉱霊社」の北海道神宮本殿側に鎮座するのが、社殿の前に控えるブロンズ製の狛犬がひと際目を引く「穂多木神社」です。元々は北海道拓殖銀行の屋上で北海道神宮の祭神と共に、同行の物故功労者の御霊が祀られていましたが、同行が普通銀行に転換したのを機にこの地に遷座しました。


使命を果たした包丁に感謝を込めて~「包丁塚」~
円山公園を北1条・宮の沢通側の入り口から入り、北海道神宮側に進んだ斜面の麓に石碑があります。1972年(昭和47年)に調理師団体によって建立された「包丁塚」です。石碑の碑文にはこう記されています。

【我々の祖先が初めて鉄包丁を用いて魚鳥を調理し食用に供したのは、古く弥生式文化時代であったが、その後現在に至るまで、人間生活にとって包丁は必要不可欠なものとなっている。また平安時代には魚鳥を割くものを庖丁刀と呼んでいた様に包丁をもって職としている者たちは、拠所として魂を打込んで取扱ってきた。使命を果たした包丁に、感謝の念を捧げ、この塚に収納し魚鳥の霊に永遠の冥福を祈りつつ、更に食生活の向上を願って、札幌市の全調理師団体及び関係業界は、この碑を建立した次第である】

札幌開拓に先鞭をつけた功労者の二人~「島判官紀功碑」「岩村通俊像」~
円山公園の南北の入り口の脇には、北海道開拓に大きな功績を残した2人の石碑が建てられています。南1条通側に築かれているのが、明治初頭の北海道開発の中枢を担った開拓使の初代判官・島義勇の顕彰碑です。



情報をつなぐ使命に殉じた方たちを偲ぶ~「逓信従業員殉職碑」~
さて、南1条通を挟んだ円山公園の南側、坂下野球場の周辺にも多くの石碑が佇んでいます。ここではそのうちのいくつかを辿ってみましょう。坂下野球場の外野側にある木立を進んだところに、「逓信従業員殉職碑」が建てられています。逓信(ていしん)とは、郵便や電信のこと。今でこそスマホが1台あれば、世界中の誰とでもつながることができますが、電話が普及する以前は、大切な報せを届ける責務は逓信従業員たちの肩に掛かっていました。開拓時代、職員たちは過酷な自然の中を自らの足で進み人々に郵便や電報を届けましたが、時には吹雪の中で命を失う職員もいたそうです。1930年(昭和5年)に建てられたこの石碑には、現在700柱以上の殉職者が祀られています。

国鉄時代からの殉難者の霊を慰める~「北海道鉄道殉職碑」~
坂下野球場の森を南に進み、円山墓地より少し上ったところにあるのが「北海道鉄道殉職碑」です。1913年(大正2年)に苗穂に建てられましたが、太平洋戦争時に消失。1953年(昭和28年)に現在の場所に再建されました。まだ列車制御システムなどが無かった時代、衝突や脱線などの列車事故はままありました。また、蒸気機関車が走っていた頃は、道内の険しい勾配や長いトンネルを通る度に機関士たちは常に死と隣り合わせの状態で働いていたといいます。1966年時点で祀られているのは、道内の旧国鉄殉職者2738柱。北海道の発展の陰には、経済の血管であった鉄道に殉じた方たちが居たことを思い起こさせてくれます。
